20240411
久々に文章を書く。ちょっと自分のなかで整理が必要だと思ったからだ。
前に書いたブログから、もう一年近くたった。
この一年は、大激動というものではなく、どちらかというと静かな、だけどたまに起こる繁忙がちょっとしたアクセントになっている、といったくらいだろうか。仕事はギラギラしたものではないけれど、僕の興味や好奇心をくすぐるようなものが多い。そういった自分が望めば、自分を満たすことができる仕事に就いている。
…個人的には僕は今の仕事を仕事だと思っていない。人生の暇つぶしみたいな夢想である。頭を使い、先行きを見通すことが求められ、それを人に伝える。それだけのものだ。
すごくお世話になった上司に「この会社の仕事は自分自身で定義しなければならない」と教えてもらったけれど、まさにそうだと思う。
そういう意味では、僕の中で、この会社での仕事の定義はまだまだぼんやりとしている。この会社のことが、この全貌が、よくわからないからだ。だから仕事の定義は休み休みで考えようと思う。少なくとも今年は、それを考えつつ、自分自身の今年の目標は「鋭さ」にした。シャープな指摘、シャープな物言い、選択を目指していきたい、という思いからだ。僕は言葉を人に投げつけてしまうきらいがある。それでは忙しい人や、めんどくさい人が多いこの会社では僕の意見には振り返ってくれない。それゆえ、僕という人間を切れ味の鋭いナイフのように、示していきたいと思っている。
去年よりはこの会社で気を付けるべきポイントは勉強したつもりだけど、まだまだ自分の指摘が頓珍漢だと思うことは多い。
それは一つには自分の理解が足りていないからだと思う。そしてもう一つ、自分が理解したことを最後人に伝えるフェーズの際に、人に寄り添っていないからだと思う。
人にどうやって理解してもらえるか、納得してもらえるか、というのは実は自分の力量だけではなかなかクリアできない。その伝える人になりきって、頭を殻にして、基本的な論理・推論だけは能力として有している人だと仮定して、どの情報を素早く的確に伝えればいいかを追求したいと思う。自分を自分から剥がす作業をしていかなければならない。
とはいえ、その練習は結局、人に伝える場数と反省を活かせるかどうかにかかっているので、引き続き自分のインプットを高めていく必要がある。深く広く。貪欲に。最後は必ず恐れず伝える。しかし今はとかく燃費が悪い。
~~
仕事に求めるのは第一に給料、そしてやりがい、人間関係である。この会社は何もないと今日先輩が言っていたけど、僕もそう思った。
半ばこの会社のことをあきらめているけれど、別に転職しようとは(今のところ)思っていない。理由の一つは、この会社が飽きるほど僕はまだ優秀ではないからだ。なんでもわかってしまうようになったら、途端につまらなくなってやめると思うけれど、少なくともそういう境地には達してはいない。
もう一つは、忘れた。寝ようか。日付が変わった。
■
仕事終わり。
朝の10時くらいまでは時間の流れが早いのに、11時から11時半までの時の流れは遅い。
なのに、昼の休憩はすぐ終わるのに、2時から4時くらいまでが異様に長い。ちょっと睡魔もくるし、心が折れる時間帯だ。
…5時になる。6時のベルが鳴ったと思えば、退勤するころには7時半を回っていた。
神田駅に向かって、居酒屋やガールズバーのキャッチを素通りして中央線に乗り込む。中央線は相変わらず混んでいるし、座ることなんてまぁできない。そういえば、中央線乗ってる時間も異様に長いな。
吉祥寺に降りたら、僕は決まって寮まで徒歩で帰る。今その時間を使って文を構成している。
…仕事の話に戻ると、新人の扱いなんてニ週間ぐらいで終わって、もう新人らしい扱いは終わってしまって、ふつうに怒られるし、ふつうに思ったことは意見している。
先週は大変忙しかった反面、今週は楽だと思っていた。そういう月の忙しさの特徴がある。
しかし、今週は決算の関連で特に週の後半から忙しかった。
何より昨日怒られたのが未だに心に刺さっている。
そして、フライデーナイトを帰りながら、その、なんとも言えぬドヨメキを夜と味わっている。
こうした時間の緩急。なによりも一瞬の喜怒哀楽と終わった後の呆気なさ。社会人として感じた、繰り返しの過程の行く末を、それそのものの美醜を、ぼくは感じている。
今日は風呂入って寝よう。
4/3
朝、社会人になった。
昨夜はあまり寝付けず、半ば興奮状態をひきづったまま無理やり眠りにつくような夜だった。眠りにつき、少しの休息をとって、目覚めた朝は気怠かったが、いささか前向きに、これから続く平日の早朝を嫌がることなく、自分から温かく迎え入れるような気持ちになった。
そんな気持ちに浸っている余裕もなく、1日が始まる。呑気にシャワーに入る時間もない。しかも、社員寮の前で有志が集合して出発するというので、遅刻防止も兼ねて急がねばならない。簡単に整髪し、荷物の確認を済ませたら、さっと着替えて、寮の外に飛び出した。
寮から三鷹台へと歩き出す。天気が良い、空が青々としている。新しい靴がきゅと、音を出すたびに新入生のような初々しい気持ちと、少しの恥ずかしさみたいなものが生じる。
吉祥寺に向かう、三鷹台発の京王井の頭線は、その間わずか三分二駅だが、ゆっくりと時が流れている。朝特有の満員電車のぎゅうぎゅう詰めほどは混んでなくて、人との距離に空間がしっかりとある。客層も社会人がわんさかいる印象は感じなかった。(本当はたくさんいたのかもしれないが)
吉祥寺につき、神田目指して中央線に乗る。
これが絶望的だった。
4年間東京にいても体験したことのない満員電車。中野〜新宿間では、足が両方つけなかった。自分のポゼッションが悪かったのもあるのだけれど、キッツぅと思いながら30分耐えた。この日はこのイベントが一番こたえた。
午前は入社式で、社長から直々に辞令をもらった。有名な方なので、すごく緊張した。しかし、実物はテレビで見るよりもちっちゃな人だったし、スピーチも噛み噛みだったので可愛らしく思えた。
昼は、入社式と設立記念日にのみ振る舞われるエビフライを食べた。かなり肉厚のエビでびっくりした。豪華な食事といえば、エビフライ、というのが時代性を感じる。現代の豪華な食事というのを考えた時に、真っ先にエビフライは出てこないなぁと大きく口を開けながら考えていた。同時に三浦哲郎の盆土産を思い出し、勝手ながら、当時の少年とお父さんに心を馳せていた。
午後から研修だったが、大したことはなく1日が終わった。
強いていうなら、僕自身の不器用さに辟易した。印鑑が上手に押せない。何回も間違えてしまって情けなかった。印鑑の「中川」の文字も、見ようによってはいささかか細く見えた。
...研修が終われば、いよいよ部署に配属される。
珍しく胸いっぱいに希望を膨らませている、そういう自分をいつまでも持ち合わせていたい。
4/2 2023 荒野を歩く
荒野を歩くというフレーズが好きだ。
新しい困難に立ち会う時、一人で何か始めないといけない時、そういうふうに自己を捉えている。好きな曲にもそういうフレーズが出てくるので、お気に入りだ。
ただ個人的な統計では、荒野を歩く、という行為は実は気持ちがしっかりとできないまま、迎えることになるようだ。
4/2 深夜。朝から部活にお邪魔しようと思うも、練習試合のため稽古はないと知った。仕方ないと思いつつも、もう一つ、自分の防具を牧田の家に持っていくという別の目的があったので七徳堂に向かうことにした。
ゆっくり起きた後、支度をして寮を出る。少し歩いて急な坂をグッと下れば三鷹台駅が見える。駅からわずか二駅の井の頭線終点の吉祥寺駅行きの電車に乗る。日曜日だから子連れも多い。まるで夜との寒暖差が激しい毎日の中、春の陽気に誘われて出てきた眠い虫のようだ。
吉祥寺駅から華麗に中央線に乗り換えると(井の頭線から東京駅行き中央線快速に乗るまでに実に2,3分しかないのだけどその乗り換えにも慣れてきた。)、お茶の水に向かう。電車の中でツイッターやインスタグラムを見ていると、もちろん同年代の就職する奴らが多いから、卒業式の振り返りをする者から、引っ越しで上京する者、新生活に怯える者まで悲喜交々と騒ぎあっている。
かくいう僕は、不思議と落ち着いていた。新しいキャリア、それもおそらくウン10年と勤めるはずの会社に入ったワケなので興奮してもおかしくないのだけど。物理的にも引越しをし、大学から会社に内容や形式も大きく変わっているのに、心はとても平静を保っていた。
...のように思えたが、違うのかもしれない。
むしろ、かなり期待と不安に駆られて興奮していて、それを抑えるべく落ち着きが表出しているのかもしれない、ということだ。そしてそのようなきめ細かな感情のフィードバック現象を感知できない「全体の自分」が存在している。
時間に押し流されて荒野を歩き始めてしまったようだ。だから気づかない。
12時少し過ぎてお茶の水に着いて、歩いて七徳堂に向かう。到着したがアクシデント発生。
鍵が開けられなかった。
困った挙句、全体に鍵について確認し、助けを求めた。嫌な先輩だなと思いつつ仕方ない。けどどうしよう。
しばらく格闘した後、あきおが別の用事で13時に道場に着くので対応しますとラインをくれた。ありがたかった。
あきおが到着してすぐに開けてくれた。ありがとう。
本当は、鍵のケースが逆を向いていて、いつもと勝手が違う風に勘違いしていたらしかった。
僕は情けなさと有り難さから、あきおに500円をあげた。ほんの気持ちだと伝えて。なぜかもう自分は四年生じゃないんだなと強く意識した。
道場の去り際、あきおに「社会人頑張ってください」とエールを送られた。
僕はありがとう、と言って去った。
こうして僕は、荒野を歩き始めていることをやっと理解できた気がする。
そこから、牧田の家に行き荷物を置いた後、昼ごはんを作ってくれたので一緒に食べた。美味しかった。
夕方までゆっくりした後は寮に帰って、明日の用意をした。
これから風呂を浴びようと思う。
明日は早い。すぐ寝よう。
雑感と故郷論
亜)
北大路のビブレで写真を焼いてもらう間に、時間ができたので一階から4階まで気ままに歩いてみる。
大垣書店、丸亀製麺のあるフードコートやミスタードーナツ。変わらないの風景もあれば、変わった風景もある。
帰省してビブレを見るたびに、僕は昔の方が良かった/今の方が便利でいいね、とかそういう判断を心の中でする。大体そういう時は美化された昔の思い出に軍配が上がる。おそらくみんなそうじゃないかと思う。
最近はある思想に肩入れすることをどことなく忌避している。
それこそ、エモとか、懐古といった感覚に対して。どことなく今の自分は手厳しく接している気がする。純喫茶やレトロな風景がいいね、と思う自分はその対象ではなく、それを評価する自分が好きなだけな気がしてならない。自分も流行に乗っている/反抗している、どちらの立場にせよ、他律的な気がして、自分の足場を見失っている。
もちろん本当にその対象が好きな人もいるはずだ。でもインスタグラムなんか見るとその古着、純喫茶を投稿する人の中に、メインが自分で「自分イケてる」と言わんばかり投稿を見る。痛く見える。ま、僕もその一人だったし、少しそんな感情が観測できるようになってからはやめた。
好きなものに特に理由はないことが多いと思うが、そこに理由を求めてしまっていてドツボにハマる負のスパイラルだ。
突き詰めれば、自分のかけがえのなさの根拠を探しているのだと思う。ただ非常に病的に追い求めてしまっている気がする。
井)
「自己分析」とか「私は〇〇です」という自分に対する属性を明確にすることが個人として、社会の要請としても求められていると思う。LGBTQ、HSP、就活など、社会の接点が増えるほど属性が大事になっている。
そのような自己と他者の位置関係を明確化させることにどんな意味があるのだろう。
卯)
ふと、梅田。エスカレーターに乗ろうとする。前には誰もいない。
無意識的に左を選んだその瞬間。
その瞬間よ、自意識が分離する。アイデンティティが分離するそんな感覚になる。
もっというと、右に無意識でもエスカレーターに乗るぼくは、「僕」で、左に無意識に乗るぼくもいたって「僕」なのだけど、明らかに違う僕の存在があるような感じになる。
これは自己が相対化されている。つまり、故郷/現在地も、主に土地にフォーカスが当たる自己の相対化なのだろう。
僕は分離して、統合することはない。でも一方で同居し、「僕」であった。
3/17 2023
正午過ぎ、曇天。
所用で駒場に向かう途中、ラーメンの画像をあげていた友人のストーリーに反応した。
「お前、東京おるんか」
「いや、大阪や」
「なんやw 勘違いか そのラーメン屋関西にもあんのか」
「...実はKが死んだ」
「は マジで?」
「さっき葬式やってん。」
「...なんでやねん」
「自ら、らしい」
井の頭線のプラットフォームで思わず足を止める。
ああ、そうか、こういう日か、と思う。
その知らせを不意に、思わぬやり取りから伝えられたことは、いきなり喉元に刃物を突きつけられたような感覚に陥った。虚無感と脱力感がブワッと膨れ上がる、そんな感覚かもしれない。
Kは、僕にとっては一年だけある程度の距離感で仲良くしていた。
思い出がたくさんあるわけではない。しょーもない話をしたとか、マクドナルドを昼一緒に食べたくらい。その記憶すら怪しい。破天荒な気質で、お利口さんタイプではなかったけど、面白いやつだったし、友達も多い快活な人間だったと思う。そういえば、大学入ってコロナになってからどうしてるか知らなかったなとも思った。
Kには弟もいて、弟はメッセージをくれた友人や、他の高校の友人とも関係があるやつなので、Kの弟のことを思うと、胸が痛かった。
〜〜
僕は結構(自分で言うと疫病神みたいな気がして、嫌なのだけど)周りで自ら命を絶つ人が出るタイミングが何度かあった。自分も周りも若いのに死んでいく「現象」が等間隔にやってくる。連続はしない。(連続したら本当の死神は自分だ)
何度か経験して、その度に悲しい気持ちになる。いやむしろ、悲しいという気持ち以上に、「なぜ」が強く感情として現れるようになった。
なぜ自分で? なぜ死ぬのか? なぜ親しいのなら声をかけられなかったのか?
そういった理由がない、答えがないものを考えることにも、自前の諦観思想が効果を発揮し、とりあえずの暫定解を自分に突きつけることにいささか慣れてきたと思う。
そんな普通に生きていたら、望まれないような経験が蓄積された僕の中で、結構「死」に対する考え方がまとまってきているので、彼を偲ぶ意味も込めて、そして今まで経験してきた他者の自死も偲ぶために取り止めもなく書き残そうと思う。
まず一つに、他者の死は、自らの生に跳ね返ってくるということ。
究極言えば、他人の死なんてものは他人事である。しかし、私はなんとなく、こういった類の死は、「生々しく、リアル」に感じる。黒板に爪を立てられ、今か今かと引っ掻くのに怯え、焦らされ、苦しめられているような、背筋が凍る感覚だ。
それは「死」というものが「生」にかなり密着していて、僕たちに「生」きることへの問いかけを突然的に論理展開するからなのだと思う。だから喪失と究極的な問いに対する疲弊的な悲しみを生み出すのかもしれない。
それこそ友人の死の際は、なぜ声をかけられなかったんだろうとか、友人に優しく接していればとか、後悔や自責の念に苛まれることもあるし、読者でも経験した方も多いと思う。
それは、他人の死が、自分の生に対して生/死のあり方そのものを動揺させようとするからだろう。(それで動揺されて後を追う人もいるのは納得する。)
次に、自死に理由なんてのはないんじゃないか、ということ。
前提として、我々は、目的的動物だと思う。三大欲求を有し、さらには現代は承認欲求も肥大化し、いろんな「〜ために」を個人個人が持っている。ということは、「死」においても「〜ために」が存在しているような発想になるのは自然だと思う。
「生きる価値を失った」
「何をしてもうまくいかず、将来に不安があるから」
「恋人に振られたから」
...まぁなんでもいいが、死すべき理由を見つけて死んでいるように考える。
僕は、そうには思えない。というのも、「生きる/死ぬ理由がなくなった」から死ぬのかもしれないと考えている。 死ぬ理由はなく、あっさり死を迎える。
当人は絶望を素通りさえして死に向かうし、死神に攫われている。その当人が予定説的に死ぬ運命だったのかもしれないとさえ思う。(ゆえに予定的に試練を与えられているという意味で死は自らの生を照射する。)
そんなものだと思う。なぜ死んだのかなんて確かめようがないこと。
絶望して死ぬ場合は、もはやそれは他死である。そう思っている。
では、他人の死に、理由も見出せないまま、理解・納得を見出せない生きる人間どもはどうしたらいいのか。ただただ、残された人間は心に鋭いメスを入れられ、苦しい思いをしなければならないのだろうか。
苦しい思いをしないといけないか、多分そうだと思う。
大事なことは、その死を背負って生きる覚悟を持つということに尽きると思っている。
その勝手に死んでいった奴らの分まで俺は生きてやると心に決め、毎日の生活と格闘しなければならないと思っている。今日〜一週間は悲しんで、また前を向いて生きるしかないと思う。
そういう意味で、他人の自死は宿命的で、挑戦的だ。
人生を進める中でそういった「試練」に立ち向かわなければならないのだ。
もう一つ大事なことは、定期的に亡くなった人のことを思い出すということだ。もちろん、思い出話に花を咲かせる、昔を懐かしむ行為なわけだけど、その過去を振り返る行為はどことなく現在の自分の跳ね返ってくる。死が生に跳ね返るように。(生/死は現在/過去の関係性は似ているのかもしれない。)
思い出す行為は何か教訓めいたことや、今後の生活の方針に関わることではないにせよ、そういった行為が心の拠り所になるのかもしれない。
思い出す時、僕は少し、自分に対して他人に対して優しくなれていればいいなと思う。友人に元気でいてくれとサラッと伝えられる人でいたいと思う。思い出す時の感情や心の救われ方もまた人によりけりだろう。
〜〜
Kの死は、牧田にも伝えた。彼女はKと浪人の時に出会っていたから、その知らせを悲しんだ。
ラインの文面を見たところ、牧田とKの間にいい思い出はないようだ。
悪ふざけで肩パンをいきなり食らったことをいまだに根に持っているらしい。
半ば怒りを滲ませたようなユーモアで僕と悲しみを共有することで、僕の心に少しのスペースを作り出してくれた。それでも彼女自身もどこか哀しく、言葉に元気がなかった。
その夜にいつも通りラインで話していると、やっぱり再度Kの話になった。
昼と同じくひとしきり思い出話をして、予備校時代に出会った他の人たちはどうしているのかななんて、話が広がっていく。
寝る前に
「こうやってたまには思い出して、前向きに生きようね」
と僕がラインを打った。
そうしたら牧田が
「もう
いないけど
もういないから
いるんだよ」
そうだなと思った。本当に。全くだよ。
法と社会 碧海純一 備忘録
社会化
個人が集団の要求するような行動様式を学習していく過程のこと
社会統制
社会化を強化する手段
法による社会統制=自覚的・制度的・技術的な統制手段
自覚的=統制目的が追求される
法の発展 擬制、衡平、立法
法的要請
第一次統制機能 権力による統制
第二次統制機能 権力そのものを統制する
フィードバック装置