3/17 2023

正午過ぎ、曇天。

所用で駒場に向かう途中、ラーメンの画像をあげていた友人のストーリーに反応した。

 

「お前、東京おるんか」

 

「いや、大阪や」

 

「なんやw 勘違いか そのラーメン屋関西にもあんのか」

 

「...実はKが死んだ」

 

「は マジで?」

 

「さっき葬式やってん。」

 

「...なんでやねん」

 

「自ら、らしい」

 

井の頭線のプラットフォームで思わず足を止める。

ああ、そうか、こういう日か、と思う。

その知らせを不意に、思わぬやり取りから伝えられたことは、いきなり喉元に刃物を突きつけられたような感覚に陥った。虚無感と脱力感がブワッと膨れ上がる、そんな感覚かもしれない。

 

Kは、僕にとっては一年だけある程度の距離感で仲良くしていた。

思い出がたくさんあるわけではない。しょーもない話をしたとか、マクドナルドを昼一緒に食べたくらい。その記憶すら怪しい。破天荒な気質で、お利口さんタイプではなかったけど、面白いやつだったし、友達も多い快活な人間だったと思う。そういえば、大学入ってコロナになってからどうしてるか知らなかったなとも思った。

Kには弟もいて、弟はメッセージをくれた友人や、他の高校の友人とも関係があるやつなので、Kの弟のことを思うと、胸が痛かった。

 

〜〜

僕は結構(自分で言うと疫病神みたいな気がして、嫌なのだけど)周りで自ら命を絶つ人が出るタイミングが何度かあった。自分も周りも若いのに死んでいく「現象」が等間隔にやってくる。連続はしない。(連続したら本当の死神は自分だ)

何度か経験して、その度に悲しい気持ちになる。いやむしろ、悲しいという気持ち以上に、「なぜ」が強く感情として現れるようになった。

 

なぜ自分で? なぜ死ぬのか? なぜ親しいのなら声をかけられなかったのか?

そういった理由がない、答えがないものを考えることにも、自前の諦観思想が効果を発揮し、とりあえずの暫定解を自分に突きつけることにいささか慣れてきたと思う。

 

そんな普通に生きていたら、望まれないような経験が蓄積された僕の中で、結構「死」に対する考え方がまとまってきているので、彼を偲ぶ意味も込めて、そして今まで経験してきた他者の自死も偲ぶために取り止めもなく書き残そうと思う。

 

 まず一つに、他者の死は、自らの生に跳ね返ってくるということ。

究極言えば、他人の死なんてものは他人事である。しかし、私はなんとなく、こういった類の死は、「生々しく、リアル」に感じる。黒板に爪を立てられ、今か今かと引っ掻くのに怯え、焦らされ、苦しめられているような、背筋が凍る感覚だ。

 

それは「死」というものが「生」にかなり密着していて、僕たちに「生」きることへの問いかけを突然的に論理展開するからなのだと思う。だから喪失と究極的な問いに対する疲弊的な悲しみを生み出すのかもしれない。

それこそ友人の死の際は、なぜ声をかけられなかったんだろうとか、友人に優しく接していればとか、後悔や自責の念に苛まれることもあるし、読者でも経験した方も多いと思う。

 

それは、他人の死が、自分の生に対して生/死のあり方そのものを動揺させようとするからだろう。(それで動揺されて後を追う人もいるのは納得する。)

 

 次に、自死に理由なんてのはないんじゃないか、ということ。

前提として、我々は、目的的動物だと思う。三大欲求を有し、さらには現代は承認欲求も肥大化し、いろんな「〜ために」を個人個人が持っている。ということは、「死」においても「〜ために」が存在しているような発想になるのは自然だと思う。

「生きる価値を失った」

「何をしてもうまくいかず、将来に不安があるから」

「恋人に振られたから」

...まぁなんでもいいが、死すべき理由を見つけて死んでいるように考える。

 

 僕は、そうには思えない。というのも、「生きる/死ぬ理由がなくなった」から死ぬのかもしれないと考えている。 死ぬ理由はなく、あっさり死を迎える。

 

 当人は絶望を素通りさえして死に向かうし、死神に攫われている。その当人が予定説的に死ぬ運命だったのかもしれないとさえ思う。(ゆえに予定的に試練を与えられているという意味で死は自らの生を照射する。)

 

 そんなものだと思う。なぜ死んだのかなんて確かめようがないこと。

 絶望して死ぬ場合は、もはやそれは他死である。そう思っている。

 

では、他人の死に、理由も見出せないまま、理解・納得を見出せない生きる人間どもはどうしたらいいのか。ただただ、残された人間は心に鋭いメスを入れられ、苦しい思いをしなければならないのだろうか。

 

苦しい思いをしないといけないか、多分そうだと思う。

 大事なことは、その死を背負って生きる覚悟を持つということに尽きると思っている。

その勝手に死んでいった奴らの分まで俺は生きてやると心に決め、毎日の生活と格闘しなければならないと思っている。今日〜一週間は悲しんで、また前を向いて生きるしかないと思う。

そういう意味で、他人の自死は宿命的で、挑戦的だ。

人生を進める中でそういった「試練」に立ち向かわなければならないのだ。

 

もう一つ大事なことは、定期的に亡くなった人のことを思い出すということだ。もちろん、思い出話に花を咲かせる、昔を懐かしむ行為なわけだけど、その過去を振り返る行為はどことなく現在の自分の跳ね返ってくる。死が生に跳ね返るように。(生/死は現在/過去の関係性は似ているのかもしれない。)

 

思い出す行為は何か教訓めいたことや、今後の生活の方針に関わることではないにせよ、そういった行為が心の拠り所になるのかもしれない。

 

思い出す時、僕は少し、自分に対して他人に対して優しくなれていればいいなと思う。友人に元気でいてくれとサラッと伝えられる人でいたいと思う。思い出す時の感情や心の救われ方もまた人によりけりだろう。

 

〜〜

Kの死は、牧田にも伝えた。彼女はKと浪人の時に出会っていたから、その知らせを悲しんだ。

ラインの文面を見たところ、牧田とKの間にいい思い出はないようだ。

悪ふざけで肩パンをいきなり食らったことをいまだに根に持っているらしい。

半ば怒りを滲ませたようなユーモアで僕と悲しみを共有することで、僕の心に少しのスペースを作り出してくれた。それでも彼女自身もどこか哀しく、言葉に元気がなかった。

 

その夜にいつも通りラインで話していると、やっぱり再度Kの話になった。

昼と同じくひとしきり思い出話をして、予備校時代に出会った他の人たちはどうしているのかななんて、話が広がっていく。

 

寝る前に

 

「こうやってたまには思い出して、前向きに生きようね」

 

と僕がラインを打った。

 

そうしたら牧田が

 

「もう

いないけど

もういないから

いるんだよ」

 

そうだなと思った。本当に。全くだよ。