雑感と故郷論

亜)

北大路のビブレで写真を焼いてもらう間に、時間ができたので一階から4階まで気ままに歩いてみる。

 

大垣書店丸亀製麺のあるフードコートやミスタードーナツ。変わらないの風景もあれば、変わった風景もある。

帰省してビブレを見るたびに、僕は昔の方が良かった/今の方が便利でいいね、とかそういう判断を心の中でする。大体そういう時は美化された昔の思い出に軍配が上がる。おそらくみんなそうじゃないかと思う。

 

最近はある思想に肩入れすることをどことなく忌避している。

それこそ、エモとか、懐古といった感覚に対して。どことなく今の自分は手厳しく接している気がする。純喫茶やレトロな風景がいいね、と思う自分はその対象ではなく、それを評価する自分が好きなだけな気がしてならない。自分も流行に乗っている/反抗している、どちらの立場にせよ、他律的な気がして、自分の足場を見失っている。

 

もちろん本当にその対象が好きな人もいるはずだ。でもインスタグラムなんか見るとその古着、純喫茶を投稿する人の中に、メインが自分で「自分イケてる」と言わんばかり投稿を見る。痛く見える。ま、僕もその一人だったし、少しそんな感情が観測できるようになってからはやめた。

 

好きなものに特に理由はないことが多いと思うが、そこに理由を求めてしまっていてドツボにハマる負のスパイラルだ。

突き詰めれば、自分のかけがえのなさの根拠を探しているのだと思う。ただ非常に病的に追い求めてしまっている気がする。

 

井)

「自己分析」とか「私は〇〇です」という自分に対する属性を明確にすることが個人として、社会の要請としても求められていると思う。LGBTQ、HSP、就活など、社会の接点が増えるほど属性が大事になっている。

そのような自己と他者の位置関係を明確化させることにどんな意味があるのだろう。

 

 

卯)

ふと、梅田。エスカレーターに乗ろうとする。前には誰もいない。

無意識的に左を選んだその瞬間。

その瞬間よ、自意識が分離する。アイデンティティが分離するそんな感覚になる。

もっというと、右に無意識でもエスカレーターに乗るぼくは、「僕」で、左に無意識に乗るぼくもいたって「僕」なのだけど、明らかに違う僕の存在があるような感じになる。

これは自己が相対化されている。つまり、故郷/現在地も、主に土地にフォーカスが当たる自己の相対化なのだろう。

僕は分離して、統合することはない。でも一方で同居し、「僕」であった。