食客

卒業に際して赤胴を読む。パラパラとページをめくると、この剣道部生活のあれこれを振り返ることができる。やはり私には4年間を振り返って詳細に卒業の言葉を書くのはとても難しい。何より「自分語り」を赤胴に残すことがとても恥ずかしいというだけなのだけど。

 そこで唐突だが、まずはこのエピソードを。引退後、横山光輝の漫画史記』を読み返していたら、こんな人物が描かれていた。中国は戦国時代、孟嘗君という人物である。彼は、自分の財産を投げ打って「一芸あれば拒まず」と積極的に有能な食客を数千人も抱え、登用していた。そんなある時、孟嘗君は秦国に恐れられた結果、幽閉されてしまう。しかし、犬のように盗みの上手い食客や鶏の鳴き真似のうまい食客がいたおかげで無事脱出できたという。(史記』「孟嘗君伝」の故事 「鶏鳴狗盗」より)

 今では、鶏鳴狗盗は人を騙したり、物を盗んだりする卑しい者」とか「取るにたらない才能のもの」という意味らしい。一方で、「どんなくだらない技能でも、役に立つことのあるたとえ」という意味も持つ。孟嘗君の危機を救ったのだから、後者を第一の意味にする方が良さそうである。

 まぁこの逸話の解釈はもちろん自由だが、例えば次のようなことを後輩君に伝えたい。毎年立派な才能を携え、志を持った「食客」たる学生が七徳堂に集結する。確かに、剣道が強い食客である方が活躍できる機会が多く、それ以外の才能は「取るにたらない才能」として扱われるかもしれない。しかし、東大剣道部では広報・動画作成に長けた食客、人の痛みに気づける心優しい食客、面白い企画を考える食客、酒をよく飲み、場を盛り上げる食客...など、須く愛すべきかけがえのない才能を持つ者が集まっていて、皆互いにリスペクトを持ちながら切磋琢磨している。また東大剣道部には「孟嘗君」たる先生・先輩方がおられ、適切に導いてもらえる。

 だから、剣道部で自分の立ち位置に悩んでいる後輩たちは、絶望せず、少々休みながらでも、頼りながらでも全然いいから、自分の良さが光る役割を見つけ、歴史に偉業を残した食客さながら、一瞬でも輝いてほしい。そうずっと願っている。一瞬でいい。必ず誰かが見ていて、その光を優しく抱き上げてくれるから。そして、君も誰かの光が消えてしまう前に掬ってあげてほしい。

 …と、ここまでやや抽象的に殴り書けば己の羞恥心も多少は薄れてきた。偉そうに講釈垂れる自分はどんな食客かと振り返ると、つくづく自分が嫌なやつだったなと思う。青二才のくせに自信満々なフリをして、先輩に文句を言うこともあった。後輩を叱った後はむしろ自分にその内容が突き刺さって痛かった。最悪なのは自分に嘘をつくことが多かったことだ。四年間一緒にいても同期に対してすら多分正直になれんかった。(自分の自分に対する恥ずかしさは、自分の弱さから来ていると本当に思う。)

 そんな取るにたらない「食客」でも部活を続けていられたのは、剣道で繋がった共同体の縁と歴史、稽古や赤提灯で互いの喜怒哀楽がぶつかり生み出される狂熱、先生・先輩・同期・後輩全ての構成員が織りなす人間模様・青春群像劇...簡単に言葉で表現し難いものたちが、私の4年間を力強く後押ししてくれたからだと感じている。怠惰な私だったがそれらから受け取るエネルギーを少しでも代謝し、その熱量に応えるべく剣道で自己表現し、与えられた仕事に格闘してきた。誰かの心を少しでも動かすことができていたら嬉しい。

引っ越し前に 2/27 2023

「最後の明大前なう」

 

「久しぶりに行ったらパーテーションが消されていた」

 

彼らしいyoungでゴツゴツしたラインが仲良しライングルに投下される。

 

僕と同じく明大前から去る友人は、4年間の最後にマクドナルドで思いを馳せていた。

 

彼が明大前から一足先に去ることに対して、僕から惜別の言葉とわずかばかり応援を絞り出して返すのが、多分、彼の求めている返しなのだろうなと思うもののなぜかパーテーションのことが気になった。

 

コロナ禍の象徴たるものは、その間は意識され、必要とされ、十分な役割を果たした。

にもかかわらず、コロナウイルスの脅威が消え去れば、お役御免となり、なんとなくある日消え去っていく。

淡く苦い記憶にさえなりやしないのだろうか、と思うと胸がキュッとした。

ラインのグループの画面から一旦前の画面に戻し、少し考える。

気持ちを整理したらまたグループの画面に戻って、堰を切ったように打ち込んで、

 

「僕らがコロナ禍で頑張った部活や勉強は、何事もなかったかのように消されてしまわないようにしなければならないな」

と打ち終えた後に、配慮して

「などと思ったり。」

を付け加えた。

 

僕たちはコロナ禍で絶望し、それでも活動できるように苦心し、その中で楽しみを見つけ出そうとした。水を求めてジタバタする鯉のように。その記憶は忘れたくもあるが、僕たちが生きた証拠でも有ってどこか恋しい。

 

少なくともそう思えたら、僕は頑張ったんだろうな。

 

今日も荒野を歩く。

 

吉祥寺の夜、北大路の思い出 2/21

引っ越し作業に忙殺。

殺されそうになるものの、四年も住んだこの部屋に別れを告げることにすこし寂しさを覚える。

冬。暖房にしても効かないエアコン。夏。虫がどんどん入ってくる網戸。

 

そんな不完全さと不快さが、この住居の「愛嬌」だと思えるようになったのはこの冬を迎えたからなのに。

 

そんな中、友人が東京にわざわざ来てライブをするから暇ならぜひ来てねと連絡。

生活の乱れがピークを迎え、早朝7時に寝て15時半に起きる生活と自分自身に嫌気が差していた自分は、誘いが来た時点でライブを見たわけでもないのに少し救われた気がした。

 

夜の20時過ぎ出演とのことでギリギリまで引っ越しのあれこれを済まして出かけた。

でも心配性の自分は家を出ていつものようにこたつの電源を切ったかどうか確認したくなって家に帰る。病気だなとつくづく思う。

この三ヶ月ぐらいずっと気になってしまうのだけれど、一体なぜなんだろう。

 

特に失うものもないのに。

 

〜〜

...友人のバンドは10人体制で、僕が東京に出てから結成した(はず)。

だいぶ前に京都と秩父でライブを見に行ったのだけど、その時からのファンで、自主制作のアルバムも何度も聴いた。

 

遠浅の湖岸、裸足の二人

 

そんな抒情的なフレーズから始まる「湖岸」という曲。

 

静的なメロディーから一瞬にしてダイナミックで歪んだリフに入る瞬間が本当に好きな一曲だ。(今はあんまり演奏してないらしいけど)

ライブだと、よりバンドの一体感が感じられる。

ライブハウスで聞く彼のバンドは僕にとって脅威であり、希望でもある。

「音」は「塊」になって、ライブハウスに充満する。

その塊は僕の耳や鼻腔を突き抜けて僕を殺しにくる。

...でもすぐ生気を与える。かつての僕は「死んで」しまったけれど新しい僕が「復活」する。人間の体が10年くらいかで全ての細胞が入れ替わるのと同じように。

〜〜

 

吉祥寺go。

こたつの電源を憂う自分の所為でライブハウスに到着するも、ギリギリ演奏5分前。

一息つく間もなく音が鳴り響く。

 

そこからは自分も演者も、他のオーディエンスもぐちゃぐちゃになっていくそんなステージ。自然と手に力が入る。ドッと無敵感がみなぎる。

それを煽るように演奏もヒートアップ。特に自分がアガってもない、しょうもないライブの煽りほど興醒めなものはないが今夜のvo.の煽りは心の底から沸々と応えたくなる。

 

いけるぞ、ついていけるぞ俺。

〜〜〜

バンドの合奏を聴いて泣くことがある。

単純に感動と希望を感じているのだと思う。喜怒哀楽の露出の一類として。

 

それとは別に僕は泣けることで毎回安堵を覚える。

「よかった。人の鮮やかな営為に対して心の底から泣ける自分がまだいた」というふうに。

...ただその安堵感は、むしろ自分がいつか泣くことができなくなったとき、もうその安堵感すらも覚えることができないことを暗に示していて。

 

いつか自分が素直に感動できない日が来たらどうしよう。

素直に感情を出せなくなった時、どうしたら良いのだろう。

 

一時のホッとする思いは、ちょっと前は僕を優しく包み込んでくれた毛布を人が変わったようにベリベリと引き剥がし、辛くさせもする。

 

でもそんな感情を「今」感受できることに対して、本当に生を実感するし、前向きに捉えたいなと思う。

 

〜〜〜

 

終わった後は、虚脱感と満たされた気分に。

終わった後の熱気は妙に気持ち悪くて、外に脱出。

ハイネケンを飲んでタバコを吸う。

僕はハイネケンを飲むだけで、なぜかタバコを吸っている気分になるけど、今日はちゃんと吸った。久しぶりのタバコだった。

酒も一旦入って落ち着いてから友人と話した。

 

基本的に彼しか話す相手がいないので、立ち回りが難しい。

彼と話しているとひょんな流れからvoの内田さんと話すことに。

 

「バンドも応援してます。実はブログも絵も大好きで」

そんなことを伝えに会いに行ったわけだけど、友人が追加でこいつは元々京都で北大路出身のやつで、と紹介してくれた。

内田さんが

「俺もずっと大学に通うとき、キタオオジビブレで酒とつまみにハムかって飲んだりしてた」

という話をしてくれた。もしかしたらだいぶ前から会っていたのかもしれない。

「そんで、piano girlの時に『キタオオジタウン』って曲作ったんよね」

「それは君に向けて書いた曲かもな!」

 

その時、肩をポンと叩かれた

 

嬉しかった。僕は上京してもうしばらく経つのか、とも思った。

 

 

帰りに友人が丁寧に見送ってくれた。

 

その丁寧さに感謝しつつ、すぐにapple musicを開いて『キタオオジタウン』を検索する。

見つけた、すぐに聴き始める。

〜〜

日が暮れていく オールドファッションをかじる女子をみる

 

という歌詞。北大路ビブレのミスタードーナツにいる女子高生。勉強したり、本を読んだりするために席代として、ささやかな褒美としてオールドファッションと水を注文している。日常に生きる女の子。

〜〜

僕も帰りのコンビニで、水だけを買うつもりがオールドファッションを買ってしまう。

 

...チョコのコーティングが余計だ。